「くらす」と「いきる」をととのえる

日々の暮らしの小さなことをひとつずつ整えていったら生き方が変わっていく

負の感情の浮上は、手放しのタイミング

 

昨日、義母から突然の電話。

 

前の日に事故を起こしてしまったらしい。

幸い、自分にも相手にも怪我はなく済んだようだけれど、

胸を打ったとかで病院へは念のため行ったとのこと。

無理もないけど、メンタル的には明らかにショックを受けていて、

電話口で話す様子も落ち着きがない様子でした。

(息子である夫と電話で話した時は泣いていたそうだ)

 

長女がまだ分散登校で学校が休みの日もあるので預かってもらうことになっていたのですが、

こんな状況で預かってもらうのは大変だし、代替案もあるので断ろうとしたら、

「おとうさんもいるから大丈夫」の一点張り。

 

事故があってまだ何日も経っていないし、心身共に落ち着いて過ごしてほしいのに、

主婦の鏡のように動き回るお義母さんが孫が家に来てじっとしているわけがない。。。

 

 でも、どう話しても絶対譲らない、頼らない。

その想いはとてもとてもありがたいのですが、嫁の立場としては、

こんな時まで義理の親に動いてもらうのは申し訳ない、いや、もっと辛口な言い方をすると、

そこまでしてやってもらわなくてもいいんです、他にも方法あるし、と思ってしまう。

 

モヤモヤとイライラを抱えたまま寝たせいか、早く目覚めてしまいました。

 

 

そんな時、ふと見つけたツイートの言葉。

 

「既に解決したと思っていた負の感情が浮上しまくるのはすごく大事なこと。

浮上しないと手放すことはできない。

・・・浮き上がったときが、手放しへの扉が開いているタイミングだとも言える。」

 

 

あーーー

まさに今の私です、それ。

時折感じている負の感情が浮上しまくっていますーーー。

 

義母にはいつも手厚く子育てを助けていただいており、本当に感謝の限りなのですが、

一方で、私の母親業を奪うんじゃないかっていうくらい孫と関わろうとする一面があり、

そのせいかどうしても心から受け入れられない気持ちがあります。

相手がしがみつこうとすると、それを引き剥がしたくなります。

 

また、私からするとやや過剰に思える、子供(孫)への関心が、

私自身が親として行き届いていない部分があるということへの罪悪感を湧き上がらせ、

見せつけられてしまっているように勝手に捉えてしまっているのです。

 

例えば、先日も子供を義母に預けた時、

子供に寒くない?と朝聞いて、寒くない!と言われたので、

私はアウターを持たせずに出かけさせてしまいました。

けれども、結局夕方になったら冷えてきたので、子供は義母の家にあった子供用の上着を着せられて帰ってきました。

本人が寒いから着たいと言ったかどうかまでは分かりませんが、

子供と同居していないのに子供用の上着まで常備しているということが私の感覚としては引きます。

着替関係はもちろん、水筒やビーチサンダルまで常備しています。

でも、「いざというとき」に孫たちが困らないよう子供用品を何でも持ち合わせるほどの、

孫への想いがあるということなんでしょうね。

(勿論私は子供を預ける時必要なものを持たせていますが、そこを当てにしていないのです。

水筒を持たせた時は、お茶を入れていったにもかかわらず、家に水筒あるから、と言って、

そっちを使われて、持っていったお茶は飲まれずに返ってきました。)

 

 

母親としての劣等感、焦燥感。

 

・・・なのかもしれないです。

 

それが、自分から出てくる時に歪んで、相手への嫌悪感に変わってしまう。

そういうことをずっと繰り返してきています。

 

今度こそ、手放してしまいたい。

 

気づくべきポイント、それは、

 

相手のしがみつきに対して、自分もしがみつき返さない。

相手の行為がどうこうではなく、ただ、自分を責める材料にしているだけということ。

 

 

でしょうか。

 

 

負の感情の浮上は手放すタイミング、という言葉に出会えたので、

こうやってブログを書いて思考を整えてみました。